「如雨露」としての嗜好、「こぼし」としての嗜好

内藤広武

「時代とともに移り変わる嗜好」「現代の嗜好をめぐる論考」「嗜好の生成メカニズム」をテーマに、大学生を対象にして2023年に初開催されたエッセイコンテスト(主催:日本たばこ産業株式会社(JT)エッセイコンテスト実行委員会)の受賞作品です。「DIG THE TEA」は、哲学者・國分功一郎さんと入賞者ら学生との座談会と受賞作品の掲載に協力しています。

【エッセイコンテスト入賞作品】
最優秀賞「孤高の孔雀たれ」潮亮太郎
優秀賞「嗜好品の構造」諏訪優介
特別賞「布団の中の定まらない私」髙木咲織
特別賞「『如雨露』としての嗜好、『こぼし』としての嗜好」内藤広武

【座談会】
前編:「人間は、全員が軽度の依存症である」哲学者・國分功一郎、若者と嗜好を語る
後編:マッチングアプリで恋愛は嗜好的になったのか。哲学者・國分功一郎が、大学生と「嗜好」について語り合ったこと

1. はじめに

「脳味噌に如雨露は日課、葉巻にキス」。これは日本のヒップホップアーティスト

Lootaによる歌詞の一節であり、曲を聴いた当時高校生だった私にとって、嗜好に対する価値観の形成に強い影響を与えたものだ。そこから8年ほどが経った今、この歌詞について改めて考えることによって、現代社会における嗜好の存在意義を見出したい。

2. 「如雨露」としての嗜好

冒頭の歌詞について、葉巻を吸うことを「脳味噌に如雨露」と喩えているのだが、この表現が当時の私にとっては非常に印象的だった。高校生である私にとって、ピンとくるはずもなかった葉巻を吸うという行為について、「脳味噌に如雨露」という表現でなんか分かってしまったという感覚。葉巻を吸うことに限らず、酒を飲む、煙草を吸うといった、当時の自分が経験し得ず存在意義がぼんやりとしか感じられなかった大人の嗜み全般が、この言葉のおかげで自分の中で実体として認識できるようになったという実感があった。

Lootaにとっての「葉巻にキス」や両親にとっての「ビールを飲む」が、自分にとっての「部活前に自販機でデカビタを買う」と地続きとして捉えられるということを知った瞬間であり、嗜好を脳味噌への「如雨露」として捉えるようになったきっかけだった。自分の脳や精神活動に対して活力を与える行為として、与えないでいると枯れてしまう、一方で与えすぎると腐ってしまう、そんな行為としての脳味噌への「如雨露」は、自分にとっての嗜好の存在意義をこれ以上ないほどに表現していると感じていた。

3. 「如雨露」から「こぼし」へ

しかし、成人してお酒も煙草も嗜むようになった今、脳味噌への「如雨露」についてまた違った感覚を持つようになった。たしかに、今でも嗜好が「如雨露」の役割をしていると感じる瞬間はあるが、それだけでは言い表すことのできない場面が増えたように思う。

今の私を取り巻く環境において嗜好は、「如雨露」による水やりのような、自身の精神活動に対して意識的にプラス(活力)を重ね与える行為というよりも、意識的であってもそうでなくても自分の精神状態をマイナスからゼロに戻してくれる、というような「控えめ」な嗜好を求めるようになったと感じている。

高校生の頃、脳味噌への「如雨露」として捉えていた煙草も、今の私にとっては心がいっぱいいっぱいになった時、気づかぬうちに手を伸ばしていたり、自分の精神状態をリセットするために縋るように吸ったりすることが増えたように思う。嗜好によって「頑張ろう!」とはならない。嗜好によって自分のかたちを留めているといった感覚だ。

このような嗜好の存在意義の変化を感じさせる要因には、もちろん私自身の年齢やライフステージの変化による部分も大きいと思う。その一方で、現代社会においてトレンドとなっているモノ・サービスを見渡すと「マインドフルネス」、「デジタルデトックス」、サウナで「整う」、シーシャで「チル」など、如雨露とは少し異なる嗜好体験が注目されているのが現状だ。

次章では、このような「控えめ」な嗜好のあり方について、私の個人的な出来事に留まらず、現代社会に生きる人々の共感を得る可能性のあるものとして考えていきたい。

4. 「こぼし」としての嗜好

「控えめ」な嗜好のあり方について語るうえで、人間の心の余裕(キャパシティ)というものに対する私自身の捉え方について整理しておく。私は心のキャパシティを、水の入る器としてイメージしている。その器は、生活におけるさまざまなストレスによって水がたまっていく。それが溢れてしまうと、自分のかたちを留めていられなくなる。つまり、器の中身が少ない状態が、心に余裕があるということになる。

私は「控えめ」な嗜好を、このような心の器の中身をこぼしてやる存在として「こぼし」と呼ぶ。「こぼし」とは茶道具の一つであり、不要になった湯や水をこぼし入れるための器として使われるが、ここでは本来の茶道の文脈から切り離し、単に「不要な水をこぼすための道具」という意味で使いたい。

脳味噌への「如雨露」が日々の活動の活力剤のような役割を果たす嗜好を表すものだとすると、「こぼし」は心の余裕を取り戻す役割を果たす嗜好を表す。心の器の中身は、意識的にこぼすこともあるし、無意識のうちにこぼれていることもある。「こぼし」はその嗜好のあり方として、能動的でも受動的でもあり得る。この点においても「如雨露」による積極的かつ能動的な行為とは異なるものとしての嗜好であるといえる。

感染症の流行や物価上昇、国際関係の悪化など、見通しの暗い社会に対して不安を抱え

つつ、自分は自分の生活を生きなければならない。そのような現代社会における嗜好の存在意義は、「如雨露」から「こぼし」へと比重が変化してきているように思う。

「脳味噌に如雨露は日課」より、まずはそう歌える心の余裕を持たなくてはならない。日々の精神活動に活力を求めるより、まずは最低限の幸せを感じたい、他者に寛容でありたい、というような現代社会に生きる人々の等身大の欲求に応えるのが「こぼし」としての嗜好だと考える。

(写真:中山京汰郎)

エッセイコンテスト入賞作品】(主催:日本たばこ産業株式会社(JT)エッセイコンテスト実行委員会)

最優秀賞「孤高の孔雀たれ」潮亮太郎
優秀賞「嗜好品の構造」諏訪優介
特別賞「布団の中の定まらない私」髙木咲織
特別賞「『如雨露』としての嗜好、『こぼし』としての嗜好」内藤広武

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東京⼤学⽂学部⼈⽂学科 美学芸術学専修